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2007年12月16日 (日)

いのちをめぐる法と科学技術の発展

iPS細胞の発見で、この思考回路も必要なしかしら。興味深いのは、障害の問題への関心の萌芽が見られること。社会的議論への参加を心がけたいって結んでるけど、何をイメージしてたんだろう、ワタシ。

いのちをめぐる法と科学技術の発展(2001年)

いのちが法律的に保護されるのはいつか
 人の命は、出生前は「胎児」として、出生後は「人」として法律上の保護の対象となる。刑法では前者について堕胎罪、後者について殺人罪などの罪を設けている。どの時点から「胎児」が「人」になるのかといった問題は、刑法では「頭の一部が露出した時点から」と定めており、「身体が全部露出した時点」と定める民法と基準を異にする。
 さらに近年の生殖医療、特に体外受精の技術が開発されるに至って、「胎児となるのは生命発生のどの段階からか」、あるいは「受精卵は胎児か」ということが問題となった。これまでの一致した見解は、子宮への着床終了(受胎)をもって妊娠の開始とみなし、胎児として保護するというものだった。しかし問題は、体外受精した受精卵すなわち「胚」の保護である。つまり試験管で卵子と精子を受精させる場合の、受精完了時から母体への移植・着床時までの受精卵だが、これは受精後約3時間から6時間経過で、独自の遺伝子をもった胚になる。約20時間経過すると細胞分裂が始まり、人の生命の原型を認めることになる。これまでの見解を適用すると、子宮に着床する以前は母体との結びつきもなく、人へと発達する確率も低いため、「胎児」として保護する必要はない。しかし、人となりうる可能性をもった「いのち」を物と同じように扱うことには抵抗がある。例えば子宮に戻さず捨ててしまう場合、たんなる器物損壊でいいのか、それを盗んで実験用に使ったときは窃盗罪になるのか、さらに、「胚」からつくることができるヒト万能細胞と呼ばれる「ES細胞(ヒト胚性幹)」はどう取り扱えばいいのか。こういったことが最近の生命倫理(バイオエシックス)で議論されている。しかし昨年11月ついに、京大再生医科学研究所は「ES細胞(ヒト胚性幹)」づくりの研究計画を国内初として承認された。ES細胞はクローン技術へもつながる研究のため、倫理委・審議会は昨年6月から「人クローン規制法(略称)」により“クローン技術の多様な展開にいち早く対応し、厳しい規制”を課したが、「実はさまざまな抜け道がある“ざる法”だ」という非難の声が数多くあがっている。

いのちが合法的に葬られるのはいつか
先述したように、刑法は堕胎に関する犯罪を設けて、胎児の生命を害する行為を禁止している。しかし「堕胎天国」と揶揄されるほど人工妊娠中絶により胎児が数多く葬られている日本で、堕胎罪で処罰されることは皆無に等しい。そのからくりは「母体保護法」(1996年 優生保護法から母体保護法に名称が変更。優生保護法は1948年制定)にある。この法律は「許される堕胎」として人工妊娠中絶を許可する要件をあげている。第1に優生学的な理由による場合(奇形児、障害児が生まれる場合)、第2に倫理的理由による場合(暴行もしくは脅迫を原因とする妊娠の場合)、第3に医学的理由による場合(妊娠の継続又は分娩が身体的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの)、第4に社会・経済的理由による場合(妊娠の継続又は分娩が経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの)である。さらに、人工妊娠中絶を堕胎罪の適応を受けずに合法的に行うためには胎児が母体外で生存することのできない未熟の段階でなけばならない、としている。 
 日本を「堕胎天国」に陥らせたのは、1949年に追加された第4の経済的理由を拡大解釈できることが理由とする見方が一般的である。また、こうして拡大解釈をする行為を、当該女性、あるいは当該夫婦・カップルの個別的倫理観の問題として考えられがちであるが、しかし、中絶合法化の動きは敗戦後の日本における必要性から生まれたものだった。つまり深刻な食糧不足と住宅難のなかの人口抑制政策であり、この結果子どもの養育に必要な国家負担は減少し、日本の経済復興は早まったとも言われている。
 しかし、高度経済成長を果たした日本では、60年代後半になると若年労働力の不足が問題になり、出生率の回復という人口増加政策が課題とされ、1969年、厚生省人口問題審議会は「日本の女性は、一生に平均二・一人の子供を産む必要がある」と答申している。またこれと前後した1965年、社会開発懇談会によって「コロニー構想」が打ち出された。これは労働力にならない障害の重い子を収容施設に隔離する政策である。こういった背景のもと、1972年に人工妊娠中絶の許可条件から「経済的理由」を削除し、新たに「胎児が重度の精神または身体の障害となる疾病または欠陥を有しているおそれが著しいと認められる場合(胎児条項)」を追加するという動きが生まれた。この改正案は結局廃案となったが、その後も、女性に障害のない子どもをたくさん産ませようという国の母子保健政策、翻って言えば、経済成長の妨げになるような障害児は出生前に抹殺しようという優生政策は今も姿を変えて続けられている。

いのちの価値が決まるのはいつか
 優生保護法はその目的に「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と書かれている。つまり「障害者は生まれてくるべきでない、また生むべきでもない」という考え方に貫かれており「障害者の存在あるいは意思の全否定」であった。しかし「からだの自己決定権の否定」に縛られてる女性との連帯が大きな市民運動となり、1996年6月、優生保護法から優生思想に基づく条文が削除され、名称も母体保護法と変更されたのである。削除されたのは「優生上の目的」の優生という言葉と、精神障害者や遺伝性疾患を持つ者に対して、本人の同意なしに優生手術や人工妊娠中絶を強制できる条項であった。政府側の動機は二点あった。一つ目は「いのちと人権を保障しようとする視点」が世界的な流れのなかで行われた国際・人口開発会議(カイロ1994)で、優生保護法が国際的な非難を浴びたこと。二つ目は「ノーマライゼーション」の世界的な流れのなかで、心身障害者対策基本法に代わって、障害者基本法が制定(1993)されたことであった。
 母体保護法に残る問題として女性団体から指摘されている点は、女性の「からだの自己決定権」が依然、国の認定基準や配偶者(男性)の意思に支配されることと「母体」保護法という名称が女性に「産むべき性」を強要するものであること、などである。
 しかし、それよりも重大なのは、先天異常の出生前診断や遺伝子操作など近年の生命科学の発展が、障害児の「存在や意思を否定する巧妙な仕掛け」を可能にしつつあるという事実である。胎児や受精卵の時期に異常があるかどうかがわかり、もし異常がわかれば中絶するという「女性の自己決定権」が優先されるのであれば、「障害者の生まれる権利」と抵触することになる。これは女性と障害者が別のものとして分断されるという状況も招きうる。しかし他方、親は健常児が生まれることを望むのは当然であるし、これまで単に障害児出産の不安があるというだけで中絶していた親たちが安心して出産することができるとする楽観的な見方もある。

まとめとして
女体をめぐる植民地的支配、障害者への科学主義的(ナチズム的)支配の経過から、「いのち」が決して個人の所有として保障されてこなかったという悲しい真実をみることになった。今、起こっている科学技術の発展、とくに生命科学の分野の急速な流れのなかで、助かるものは誰か、また溺れ死ぬ者は誰かということを、冷静に考えてみる必要がある。たとえば「ヒト胚性幹」についても、それの倫理的使用に関する議論だけではなく、その科学・医療技術により生を与えられる人間がいるということ。彼らの生きる権利を奪うほどの倫理観が存在するのかという点、あるいは第三世界で暗躍する臓器売買産業への再考手段という観点、または生命科学分野での立ち遅れが経済・社会に与える影響なども含めて、突き詰めて考えるべき課題であろう。神戸市は「神戸医療産業都市」構想を打ち立て、阪神大震災などの影響で低迷する神戸経済を再生していこうとしている。その雇用効果なども関連させながら、生命倫理をどう保持していけばよいかについて、深い認識を形成することと社会的議論への参加を今後心がけたい。
 
参考文献
丸山百合子/山本勝美『産む/産まないを悩むとき』岩波ブックレット 1997
石原明著『法と生命倫理20講』日本評論者 1997
大谷實著『いのちの法律学』悠々社 1994

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