練習
基本姿勢に、「思考のプロセスを書き留めます」ってあるんだけど、ニュースクリップばかりで今年度はほぼ思考していないことに気づいた
そんなわけで、来年度は思考体質に戻るよう意識すると思う。
練習。
「ダブル・スタンダードによって不利益を受けている集団がすぐれているのは、ジンメルのいうような「鳥の視座」すなわち差別の認識可能性だけであることを確認しておかなければならない。かつてマルクスが労働者の全体性として強調したあのロジック――しいたげられている者たちだけが「正義」であるという救済の論理――は、このさい廃棄されるべきである。認識論的優位性と構造的優位性とは混同されてはならない。」
つまり、認識論的優位性をもつのは少数者だけど、構造的優位性をもつのは多数者だってことだ。ここで「正義」というコトバが適切なのか疑念だが、私が引っかかるのは、被抑圧者「だからこそ」社会を変えうる可能性を持つと言いたげなマルクスの主張。
この辺、当事者性を云々する議論と関わる。あれって、研究者って自らの首を絞めてんじゃないのかって。
それとも、そこ(現場)からは超越した別世界での物言いだから、関係(影響)ないのかね。
こういう解釈はジンメルとすれば不本意かもしれないが、「もちろんジンメルが差別について考察せざるをえなかったのは、かれがまさに社会学者であったからだけでなく、ユダヤ人としての個人的な被差別経験に負うところが多い。」
と野村氏も書いているように...ていうか。
少数者だけが正義なんて思わないけれど、立ち位置上、言えることがあるんではないかいうのは謙虚に思う。ユダヤ系思想家は、「ユダヤ人の不遇」という担保がないと、そこまで突き詰めたことは言えないんじゃないのって(ありゃ、この言い方は謙虚じゃないな)。
アーレントだから、サイードだから言えるっていう思想は必ずあると思うので、それを他者の視点として参照することはできるにしても、それを「超越」するものとして「信仰」したいと思っても無理だ。
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