癒しについて
リンク: 壊れる前に…: ホロコーストとパレスチナ.
上記リンクの内容を読んで、以前のシブい感覚が戻ってきた。
かなり支離滅裂だけど、書き留めておきます。
自己同一性という名の癒しという問題が一時期流行った。現在でも考えられているのかもしれないけど、いわゆる「プチ・ナショナリズム症候群」。
ドイツ近代思想からナチズムという歴史の流れも影響して、戦後日本では(少なくとも左系思想近辺では)、ナショナリズムを危険視するスタンスが王道。まぁ当然かな。
ただし、問題設定を、戦争~戦後責任にする場合、私は何者であるべきか、という問いは重要。そしてその答えは、「全面的に日本人であるべきだ」だと思う。
しかし、グローバリズム、特に多国籍企業の発展を背景にした経済~軍事グローバル化という現在・未来を問題設定とする場合は、「日本人」というものに全面的に人格統合しようとすることは問題を多く含むと思われている。たとえば911以降の米国が悲惨なケース。
したがって、そういった文脈では「日本人」という集団的同一化を否定する思想、つまり「地球人」「国際人」「人類」「人間」が多用されてきたように思われる。
プチ・ナショナリズムに警鐘を鳴らす側の主張は、プチ・ナショナリズムが<癒し>になっているという、ざっくりと主張なんだけど、逆にワタシは、「地球人」「国際人」への融合こそ<癒し>だと思う。
一人一人が皆んな違って、いろんな考えがあるという「多文化主義」も<癒し>。軽いもん。
戦後処理を考えるときには日本人として、ネオリベや環境問題を考えるときには地球人として、そういった変わり身は可能だろうか。
もちろんワタシに付けられる「タグ」は、決してひとつじゃないけど。
しかし、日本人であることを「たまたま」にするような流れは感心しないな。デフォルトで付いている「タグ」は、圧倒的に疲れるものだが、それこそが思索の源。
ちょっとした予感がするのだけど、経済~軍事グローバル化や環境問題といった話においても、<日本人>で統合したら、今のワタシはたぶん大変疲れるのではないか。
ほんでもって、主張したいのは、「疲れるぐらいじゃないとダメでしょ」ってことだ。
戦後民主主義による典型的な人格形成。問題を注意深く避ける人格は、それを意識的に認識するときは、強くなる。
もちろん強いから良いと主張するつもりはない。ただ壊れないだけだ。
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