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2008年2月29日 (金)

共感/対話の場

※何だったか忘れたけどメモの一部です。

私は前者の二つについては共感を得るためには感情を調和させなければならず、それは「当事者の感情に入り込もうとする観察者の努力」と同様に、「自己の感情を観察者がついていけるものにまで引き下げようとする当事者の努力」(Adam Smith)がなければならないという信念のもとに両断せざるを得ない。

つまり差別者に向かって被差別者が自らの差別の悲話を何万回唱えても、差別者自身の身にも起こり得るという現実感を持たせない限りあまり効果は期待できないのである。(現実感を持たせる方法には注意しなければならない。たとえばこういった差別問題の講義では、必ずと言っていいほど女性差別を引き合いに出すが、たとえ女性であっても私にとっては現実感がなく全く効果がない)。これは共感を得たい当事者が国家であってもまったく条件は同じであると考える。

しかし第三のいかに討論の場を立ち上げ、そこでの対話に人々を巻きこむかという点は、巨大な組織力や財力を誇る国家やマスメディアと比較してその実現の可能性に大きな差があると言わねばならない。

現状の市民は国家やメディアが流す情報を受け取るだけの自律性を失った「大衆」となり果てており、個人が素早く効果的に意見表明できる公共的な討論の場がなく、それを当然のことと考えている。

ハーバーマスによると、それは「公的領域の衰退」であり、「親しい者どうしが文学や政治の話を避けて、一緒に映画やテレビを気楽に楽しむというような、インフォーマルなグループ活動が一般化してしまった」と指摘される。

そういった「私的な関係の親密さ」は「他人同士が距離を保ちつつ関係し合い、ともに行動できるような社交性」を失わせ、人々はエスニシティや階級別に区分された、内向きな社会で生きることを求めだすのである。

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