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2008年4月27日 (日)

持続可能な「人間発達=社会発展」の方向性と可能性~ジュゴン保護運動にみるシンボルとしてのAnimal Rightからの一考察~

お恥ずかしい文章。「私は...思う」ばっかだ。ダメだね。

持続可能な「人間発達=社会発展」の方向性と可能性
~ジュゴン保護運動にみるシンボルとしてのAnimal Rightからの一考察~(2000年)

<参考文献・資料>
・社会環境論研究会編 「社会環境と人間発達」 大学教育出版
・森岡正博‘自然を保護することと人間を保護すること-「保全」と「保存」の四つの領域’(鬼頭秀一編『環境の豊かさをもとめて』昭和堂) 
・森岡正博‘ディープエコロジーの環境哲学-その意義と限界’(伊東俊太郎編『講座文明と環境14・環境倫理と環境教育』朝倉書店)
・飯島伸子 「環境社会学のすすめ」 丸善ライブラリー
・米本昌平 「地球環境問題とは何か」 岩波新書
・伊藤嘉昭 「沖縄やんばるの森~世界的な自然をなぜ守れないのか」 岩波書店
・岡本三夫、横山正樹編 「平和学の現在」 法律文化社
・高良鉄美 「沖縄から見た平和憲法~万人(うまんちゅ)が主役」 未来社
・長元朝浩他 「これが沖縄の米軍だ~基地の島に生きる人々] 高文研
・ニフティ 自然環境フォーラム(
http://www.nifty.ne.jp/forum/fenv)
・海上へリポート政府基本案 ・その他、ジュゴン関連のサイト

はじめに
 「社会環境論」は人間発達と社会発展の相互連関を根底的に解明することをめざした社会に関する新しい科学である。その基本概念は、「矛盾にみちた人類社会を創りかえ、社会を本当の意味で「発展(development)」させていくのは、一人ひとりの人間の「発達(development)」とそれに基づく社会的営為、そしてその輻輳としての「類」的発達にほかならない。」ということであろう。 このレポートでは一人ひとりの人間発達を通した社会発展とはどういうものかを検討し、その方向性と可能性を、ジュゴン保護運動の例を通して考察していきたい。

社会問題を解決する、人間発達(自己改革)とはどういうものか。
 多くの人々にとってあらゆる社会問題は自分に被害が及ばなければ他人事である。自分に被害がなければ、すなわち自分に関わりがなければ他人事。あたりまえだ。では全世界の人に被害を及ぼす社会問題なんてあるのか。例えば世界大戦の勃発はそうかもしれない。しかし全世界の国が参加するオリンピックのような戦争なんて考えられるだろうか。地球環境問題はどうだろう。オゾン層の破壊、温暖化などは全世界に及びつつあるとされる。及びつつある、すなわち被害が及ぶ順番があるというわけだ。人々は自分たちの順番が来る前に誰か(たぶん科学者)が解決してくれると思っている。それより最近、急速に議論が高まった環境ホルモンなどの新型汚染はどうだろう。これもとりあえず自分たちに被害が及ばなければOKなので、国内で処理ができない産業廃棄物は南の孤島に投げ捨てればいい。さらに、汚染されているかもしれない肉・魚介類を採らず、野菜は無農薬で自家栽培をし、ミネラルウォーターを大量消費するといった生活をすれば完璧だ。濃縮された環境汚染の被害を最小限に抑えることができる。
 最後の例はエコロジーな生活としてメディアに紹介されていたことで、しばらく私自身も実行していた(野菜はある農家から買い入れた)。しかしある日、違うなと思った。なんというか、食物連鎖の輪に入ろうとさえしないなんて、潔くない。おまけに当時の私は思いっきり被害者ヅラをしていた。自分ながら、なんてやつだと思う。
 環境問題に限らず、基地問題しかり、原発問題しかり。明らかに加害者である企業や国に属さない多くの日本人は、いつまでたっても「関わりのない」人か「被害者」か、である。「関わりのない」人は社会問題に気づきさえしない。「被害者」は「社会改革」の要求をし最も効果的に実現もするが、「自己改革」の意識は起こさないだろう。「自己改革」をしようとする人は、少なくとも自分は加害者であると意識した人々だけであると私は考える。

第三世界に対して、私は加害者なのか?
 では私が私自身を加害者であると自覚し、「社会改革」を「自己改革」の問題として捉えるのはどういう場合だろう。例えば熱帯林の減少。先進国の企業が第三世界で行なっている商業伐採がこれを引き起こしているのは明らかだ。それは先進国で快適を享受する消費者たちの浪費、すなわち大量生産・大量消費の市場メカニズムのせいだ。特に日本は割り箸に象徴される使い捨て文化の国である。現状を知れば無駄使いはしない、ぐらいの自省をし実行もするだろう。しかし日本人の個人として、自分の立場をどう位置付ければいいのか。
 地球環境問題の本質のひとつは地球的な南北問題であり、富める者が貧しい者を搾取し抑圧する社会構造を変革しないかぎり解決にはつながらないというのは事実である。しかし、被害をこうむっている現地住民に対して、自分自身が「加害者」であるとは誰も考えないのではないか(私は考えない)。何故だろう。正直言って直接の加害者でなければ、どうもピンとこないのだ。関わりがないと思ってしまう。いや、関わっているとわかっていても、実際問題、加害者意識を自覚するの困難なのだ。何故だろう。厳しいことを言うと彼らは人間だからだ。それは「自分自身を含む自然を根底的に破壊したり保全したりする可能性をもった、他の生物種とは異質な主体」だからだ。要するに私が言いたいことは、人間種には自己責任能力があるということだ。そうであるなら、ほとんどの問題(地震や火山噴火など一部の自然災害を除く)は因果応報のごとくであると思ってしまう。これは富める者の論理であり、先進国の罪を無視し隠蔽する可能性を含んだ危険な考えであろうか? 発展途上国の自立性について多分の偏見があることは認める。しかし正直に言って、彼らに対する加害者の自覚が今の私にはどうしても持てない。国や発生源大企業が加害責任を回避しがちな状況を憂い、社会改革への運動(被害者運動)を起こすとしても、当然私は被害者にはなりえない。加害国の一部を構成する日本人のくせに、被害者である当該国の国民の代理人というあいまいな意識をもってしまう。それでいいのだろうか。ここの意識設定が自分自身に納得のいくもので、しっかりしたものでないと、今の私は行動ができないのである。

「持続可能な発展」における「欲望」とはどのようなものか?
 地球サミットで提唱され、今日しばしば取り上げられる「持続可能な発展」(sustainable development)という概念がある。それは「未来の世代がその欲望を満たすための能力を損なわないようにしながら、現在の世代の欲望を満たすような発展」であるという。国際政治では「地球環境問題」を、現在の生活レベル・体制思想・社会制度などに深い変更を加えないことを前提としたうえで解決しようというわけだ。貧困層の経済開発を含めた発展の意義を認めながら、というのは仕方ないが、先進国の二酸化炭素の排出権売買などほとほと呆れかえってしまう。加えて、そのパースペクティヴに捉えられているのは「将来世代の人間」をも含めたうえでの「人類」とその「生息環境」であり、人間以外の生命体や自然それ自体の「内在的価値」(intrinsic value)は基本的には考慮されていない。
 私は人類を生物界の支配者だと思っている。人間は一方的に動物や植物を、その食欲の犠牲にしている。しかしヒエラルキー型の頂点ではなく、連鎖の輪の一部という自覚をもつべきなのだ。そうすれば「人間は自分自身の「いのちにかかわる」(vital)欲求を満たすときを除いては、生命体の豊かさと多様性を減少させるどんな権利をも持っていない」という理念がスッと理解できるだろう。 
 ところが近代文明は、自然へのヒエラルキー型支配と搾取の歴史であった。それは人間のもつ物質的欲望と感性的欲望を端的にあらわした結果であり、それを肯定してきたからこそ人類の発展があったと言われている。好きなものを食べ、快適な温度の部屋で寝起きできるという今の日本人一般の生活様式は、人間の持つ根底的な「欲望」に根ざしており、加えて人間には、他人より良い生活をしたいとか、権力を所有して他人をコントロールしたいなどの、根深い精神的欲望があるとされる。
 では、「持続可能な発展」に示される「欲望」がこのようなものであったとして、果たして地球環境問題が解決する道はあるだろうか? 答えはNO.だと思う。

私たちは、「違うかたちの欲望」を見つけていこう。
 社会環境にあわせて人間は価値観を変えていくものだ。そうでないと生き残れない。そして「欲望のかたち」も、現在の世代から将来の世代で必ず変化させなければならない、いや、していくのだと思う。そして、それがすなわち人間発達=自己改革なのである。
 地球と人間、どちらが大事かという命題がある。「どちらも」とは言えない状況であれば、私は迷わず地球と言う。オゾンホールが拡大して紫外線が地球上に降り注いでも地球は困らない、生物種も突然変異や適応・進化を遂げ新たに発生する。困るのは弱い人間なのだという反論もあろう。では人間より先に絶滅の危機にさらされている、もっと弱い生物種に対してはどうなのだろう。同時代に生きている、そんな生物種に対して同情や慈悲がお気に召さないのなら、「多大なめいわくをかけているのだ」と言おう。それは古くから教えられてきた道徳に反することである。いまどきの子ギャルだって「他人にめいわくかけてないから、いいじゃん」とか言っているのにだ。
 だからといって、「人間以外の生命体の繁栄には、迷惑者である人類の人口の減少が条件だ」と唱えるわけではない。ただ人間は、いや少なくとも日本人はもうこれ以上の快適はいらないと思う。例えば電力消費の少ない、冬は少し寒く夏は少し暑い、そして蚊や虫の多い生活を始めてみよう。もちろん簡単な話ではない。多くの人間は、格闘しながらも、従来の欲望の命じる方向へと流されてしまうだろう。でもそこで、自然に対して申し訳ない気持ちがあれば、少し自腹を切る覚悟(少し快適や便利でなくなる覚悟)を持てないだろうかという、単純な話である。
 「欲望」とはそうする行為や状態が「気持ち良い」ということであるなら、無駄なクーラーをつけたり、コンビニ弁当を買ったり、ゴミを分別しなかったりすることは、もう私個人では、肉体的には楽だが精神的に気持ち良くない。そして、こういった「欲望」は日本人ひとりひとりに浸透しつつあると言える。例えば日本での電力消費量は年々下がりつづけている。今年の夏は地震で壊れてしまった福島原発をはじめとして、東京電力管内で実に7基の原発が止まったらしい。しかし、電力需要ピーク時期にもかかわらず供給不安はまったく起きなかった。これまでの「原発は絶対必要」という話はいったい何だったんだ、というわけである。もちろん、これには「家庭用太陽光発電プラント」などの科学技術の面での「発展」があったということもできようが、彼らにしても金銭という自腹をちゃんと切っているのである。
 このようにして人間の「欲望」は再構築されてきており,今後もすることができると思う。しかし、個人の「欲望」の変化が果たして市場経済システムや社会システムまでを変え得るのかと反論されるかもしれない。そんななか、私が注目しているのがAnimal Rightという概念である。シンボルとしてのAnimal Rightは社会システムの変革にも効力を発揮しつつあるように思われる。

Animal Rightという考え方
 Animal Rightは1983年にアメリカの哲学者T・レーガンが提唱した考えである。人権の考えを広げ、動物にも生命として固有の権利があるというものだ。また、1970年代にアメリカに登場した環境倫理学という学問もその基本主張として「自然の生存権の問題」がある。これは人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があり、勝手にそれを否定してはならない、というものである。
 環境倫理学はまだ新しいが、倫理学の根本的なものとも言える。というのも、倫理(ethics)の語源であるethos という語の原義は「動物の生息地」であり、これはつまり、動物の生息地たる地球の環境を守る事が倫理学の原題といえる事を示しているのである。つまり、環境倫理学は、最も根本的であり新しい倫理学なのだ。
 ところで、このAnimal Rightを使って「自然の権利訴訟」を起こす検討をされているのが、沖縄の名護・辺野古海上ヘリ基地建設問題で、2000年に入ってから急浮上してきた「ジュゴン」である。いうまでもなく、「ジュゴン」はワシントン条約で国際的に保護の対象となっている海の哺乳類で、日本の天然記念物だ。彼らは東アジアの極限に生息しているジュゴンとして、学術的価値を含め世界から注目を集めており、絶滅の危機にあるのではないかとも言われている。にもかかわらず、日本と米国は地位協定に沿って、彼らの唯一の餌場である辺野古の藻場に、新しい米軍基地の建設を計画しているのである。
 97年に基地建設案が発表されて以来、様々な紆余曲折があった。まず同年に行なわれた「名護市民投票」。海上に新たな米軍基地を建設することの是非を問い、結果は、僅差ではあったものの、「基地建設は認めない」とする側が多数派を占めた。しかし、この投票直後に当時の名護市の比嘉市長は、「基地受け入れ」を表明、リコールを避けるために自分から辞任し政治責任から逃亡する。この市長辞任を受けての市長選挙では、「もう基地移設問題は解決した」として徹底して基地問題を争点しなかった岸本候補が当選。しかし岸本候補は実は基地推進派だった。続いて沖縄県知事選挙。名護市民投票で敗北した政府は、沖縄全土に対して猛烈な圧力をかけ、基地新設に反対する太田知事(当時)の追い落としをはかり、結果、今度も僅差で、政府に従順な稲嶺候補が当選したのである。さらに先日開催された「G8九州・沖縄サミット」の会場が沖縄名護市になったのは政府の懐柔策であることは疑いがない。
 この例に限らず、沖縄の基地問題は複雑である。沖縄に対して、政府は沖縄振興対策費を捻出している。軍用地主のほかにも基地に勤務する人々が7000人以上おり、これらの地代や人件費は約一千億円という金額になる。「何より予算の獲得だ、金になる事業だ」という空気が自治体にはまだまだ強い。今回の海上へリポートについても、賛成反対が入り乱れているのは、環境被害を引き起こす米軍基地はいらないとする人間がいる一方で、夢のような地域振興策に魅せられる人間がいるからである。しかも、市街地の中心部に所在する普天間飛行場に比べると、海上へリポートは規模、安全性、騒音の影響、住民生活・地域開発等の影響といった面で優れている。日米地位協定の現状を考えるとベストプランじゃないかとさえ思われてくる。 このように人間にとっての損得を考えると、解決の糸口は永久に見えてこないと思う。「「加害者」としての人間と「被害者」としての人間という矛盾した関係」が伏在しているからである。
 ではジュゴンにとってはどうだろう。彼らにとっては海上ヘリポートは間違いなく100%損な話である。彼らは100%被害を受ける側であり、私たち人間は100%加害者であることに誰も異論はないだろう。そして加害者であると意識すれば、自己改革=社会改革の可能性がでてくるのだ。

ジュゴンの住む美ら海を守れ~保全と保存~
 ジュゴンを「破壊される自然のシンボル」として掲げはじめた2000年から、海上へリポートの問題がようやく全国に知られることとなった。今までも予測される海洋汚染や騒音被害などへの警告が頻繁に沖縄から発信されていたが、少々インパクトに欠けていたのだ。逆にいえば、「破壊される自然のシンボル」があれば、現在の環境運動は断然強く広がっていくように私は思う。
 環境運動は時にめざましい成果をあげてきた。その多くは、工業化や都市化に伴って健康被害や生活・環境破壊に抗議する「反公害・被害者」運動であったが、次第に、予測される破壊を回避して地域の生活者にとって望ましい環境を維持・保全しようとする「環境保全」運動が訪れ、さらに現在から今後は「環境保存」運動がますます活発化してくるのではないかと思っている。
 ところで「環境保全」と「環境保存」の違いは「人間を保護する」か「自然を保護する」か、で端的に言い表わされる。例えば、名古屋市のゴミ処分場問題、吉野川可動堰の問題もそうだが、生活者(人間)にとって望ましい環境というと、考え方によっては必ずしも反対運動が正しいことであるとは言えない。しかし、「環境保存」の理念をもち、強力な運動や市民投票を進めた結果、名古屋市は計画を断念。吉野川では中山前建設大臣の汚職が発覚し辞任の事態に発展。その煽りを受けて、現在、政府与党は全国的な公共事業の見直しを余儀なくされている。これは地域の「環境保存」の問題が発展すれば、社会システムを揺るがす可能性があるという良い事例なのではないだろうか。ちなみに神戸空港反対運動について述べると、神戸沖ではすでに守るべき自然がなかったから失敗したのではないかと私は思う。憂うべきことではあるが、私自身、真剣になれなかったのは正直なところで、むしろ、ジュゴンを守るために海上ヘリポート基地の勧誘をしたいぐらいだった。(これはやはり、万人には受けいれられないだろうか?)

おわりに
 もしかすると、沖縄・ジュゴンの「自然の権利訴訟」によって、海上ヘリポート案が白紙撤回されるかもしれない。そうしたらどうなるのだろう? この際、「ジュゴンがかわいそ~」という気持ちでOKなのだ。いや、それだけが大切なのだ。地域の人間や国際関係のことを考えると袋小路に入ってしまう。訴訟を模索している日本環境法律家連盟では、アメリカ環境保護法のEndangered Species Act(ESA)という法律を視野に入れているそうだ。世界的な論争を呼ぶと成功する可能性も高まる。しかも、安保条約の相手国であるアメリカの法律なのである。さらに、自然保護運動の有名な活動家だったゴアが大統領に就任すれば、ひょっとしたら、「環境保存」の理念を通して日米地位協定の枠組みを大きく変えるようなことが起こるかもしれないと期待するのも、突飛な話ではないと思うのだ。

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