« ぼのぼのだ! | トップページ | 7-2作品 »

2008年7月12日 (土)

「われわれ」かぁ

戦争責任と「われわれ」―「「歴史主体」論争」をめぐって (叢書 倫理学のフロンティア) の要約、一部抜粋

ところで、内容とは全く関係ないんだけど、この本が吉本さんをめぐっての論争から始まっているので、少し吉本さんについてメモ。

ワタシは吉本隆明の著作をそれほどしっかりと読んだわけではないが、80年代後半に広告業界にいたワタシのあり方の根本をなしたのではないかという気がする(「広告批評」などにしょっちゅう出てきたので)。

吉本さんの学問的態度は(私が把握するところでは)まず、どんなにすばらしい外部の思想を持ってきても、それが日本の大衆に伝わらなければ意味が無いというもので、私はそれに非常に共鳴したんだけど。

大衆に伝わっても、販売に繋がらなければ意味が無いという「資本主義の論理」に広告業界は悩み続けてきたわけだが、その悩みから一時的に解放されたのが80年代広告業界であり、つまり広告を打てば、何だって売れる時代だったわけだ。そういった「ありえない幸福」のなかで、いくら「糸井君は資本主義の論理を超えた。広告の存在意義を自己否定するコピーだ」(吉本)と称賛しても、今となれば何か虚しい気がするのは否めない。

売らなくてもいい広告というのは幸せだ。結局は広告人もパトロンを探しているのか。いつの時代の芸術家だよ。

吉本の「自立の思想」

戦後知識人たちの「民主主義」への()転向問題。外部から啓蒙的に現実に関わろうとする在り方への批判。

知識人に対して「大衆」を対置→「インターナショナリズム」に対して「ナショナリズム」

「大衆」の「自立」として現実の根本的変革を志向。

柄谷・蓮實 vs 加藤・竹田

柄谷・蓮實=むずかしい「外来思想」に「眩惑」されてしまっている、という加藤・竹田に対して

「「生の感覚」に基づく前言語的な触れ合い…は共同体の内部で取り交わされる挨拶、同じ共同体に属していることを暗黙のうちに確認しあう儀礼…深く内面化され…」(浅田)と切り返し

「裸眼で見られるような情景に移し変えて味わってみて、はじめて批評になる」(竹田)に対して

「(批評とは本来)まず何よりも、「裸眼」による認識がいかに深く共同体に規定されているかを認識すること、それによって共同体の外に出ようとすることから始まるのではなかったか」(浅田)と主張。

さらに、現実世界の変化は自立の戦略を無効化した1。今や、「対幻想」=「自立」に依拠することは、ソフトなかたちで国家に取り込まれてしまい「<共感の共同体>の内部でぬくぬくと自足している」(浅田)

加藤の「「外部」幻想」への批判

「外部」を語ることによって、共同体という「内部」を撃つこと自体は正しいが、「内部」とのダイナミズムなしには「外部」は語りえないはず…

「外部」の語り方がもっぱら「外来思想」の援用であるために、「内部」に何らダメージを与えない単なる「言うこと」になってしまっている=明治以来の日本の知識人へ先祖帰りしている(例外として小林秀雄2

「「外の認識」をどのように共同体内部の成員に届く「内の言葉」で語ることができるか」

=「この「共同体」の言説空間の中で、その「共同体」の言葉を使って3、どうやればこの「共同体」に属さない、その「外部」の言説を成立させることができるか」

=「柄谷行人流の言葉で言えば、現代日本の言説空間において、どのように(「超越的」ではなく)、「超越論的」4な批評が可能か」

But,柄谷の論稿「ポストモダンにおける「主体」の問題」は、「超越論的」ではなく、「超越的主体」がもつ「外部」にすぎない。

なぜなら、柄谷には「共同体」を超えようという「動機」が欠如5し無根拠な「啓蒙」のスタンスだから(竹田)

柄谷にとって思想とは、自らの<在り様>を捨象するもの。「文学的内面」として拘泥することは「共同体」に取り込まれること。

 ⇔

加藤にとって思想とは、自らの<在り様>に定位するもの。これを捨象することは言葉において「共同体」を超えることはあっても、本当には超え得ない。

  1. なぜ「現実世界の変化」が「自立の戦略を無効化」するのか?この「現実世界の変化」とは何か。冷戦崩壊そのものなのか、それとも、それに影響されて日本国内で広がるきな臭い動きなのか。それとも、「インターナショナリズム」、つまり<他者>との相互的関係性ということなのか。吉本の言う「自立の思想」は冷戦という安全地域(家の中)で語られた雑談(虚妄)に過ぎなかったというのか?

  2. 小林秀雄、読んだことがないのだが、吉本隆明は小林を高く評価しているようだ。吉本が評価する点は、自意識は仕事に入り込む。つまり単純な客観、あるいは客観的実在なというのはないのだ、という「自意識」の地平を小林が切り開いたこと、だそうである。(『相対幻論』)

  3. 「語り口」の問題ということなのか。いや、このあとで高橋の共同的な語り口を非難している加藤にとって、共同体の「言葉」とは「思想」のことであろう。

  4. 柄谷行人の超越論的な批評とは何か。

  5. この言葉は在日として生きてきた竹田から出されたもので、それはそれとして納得するが、彼の動機に匹敵するものを提示しろというのは無理な要求ではないか。彼が彼自身の共同体(在日の世界)を超えようとしているのかどうかも疑問だ。さらに加藤には、柄谷・浅田にはない、どんな動機があるというのだろうか。

« ぼのぼのだ! | トップページ | 7-2作品 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「われわれ」かぁ:

« ぼのぼのだ! | トップページ | 7-2作品 »

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ

ツミボンの日々