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2008年7月 7日 (月)

「資本主義の精神」と欲望の構造~近代合理性の検討

『プロ倫』に取り組んだレポートを懐かしくて読み返した。

ふーむ。

大塚さんじゃなくて、山之内さんの説を検討してるみたい。

なんか読めば読むほど、ワケわかんないことになってる。

ん、でもま、とりあえずアップしとこう。

「資本主義の精神」と欲望の構造~近代合理性の検討(2001年)


 講義では「近代()理性」の意味内容と問題点を、マックス・ヴェーバーの「学問」「資本主義の精神」「官僚制」という3つの観点から検討していった。正直言ってさまざまな点で消化不良が残っている段階である。最大の疑問は、ヴェーバーが何をもって「合理的」としているのか、その方向性がよく見えない、ということである。ヴェーバーの求める「合理性」が、どんな「道理」に対する強まりを意味するのか。それとも彼の学問態度を特徴づける「価値自由」の精神態度から答えが導きだされるとすれば「合理性」も多様な内容を包含せざるを得ないということなのか。各課題によって合理性の意味内容は微妙に変容しているように感じた。その人間にとって何が合理的かは、その社会や環境の基盤から生じるもの、とも言えるだろう。


 本稿では近代()理性への認識に対して、わが国における代表的なヴェーバー研究者である山之内の説を中心に検討を進めてみたい。また、「それを合理的というのであれば」という疑問を呈しながら、今時点で理解できたこと、あるいは解釈したことなどを「資本主義の精神」を中心にまとめてみたいと思う。



救済の確信から救済の欲望へ


 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、ヴェーバーはプロテスタンティズムの「世俗内禁欲」が近代資本主義の精神に大きく影響をしているのではないか、と考えた。「限度のない営利欲」が社会に浸透し、その結果、近代資本主義が成立したという「通常」の考え方を否定し、むしろ資本主義の精神は「こうした(限度のない営利欲という)非合理な衝動の抑制、少なくともその合理的な調節と、まさに同一視されるべき場合さえあるのだ」(1)としている。


 なぜ「禁欲的」で「反営利的」なプロテスタンティズムが資本主義の精神になるというのか。その第1段階として、カルヴァンの「予定説(選びの教説)」の概念が説明される。これは、その人間が救済されるかどうかを神はすでに決定しており、その決定は誰も覆し得ないし知り得ない。そのため信者は自分が救済される側か否かという不安を運命的に抱えることになる。しかしこの不安を解消し「救済の確信」を得るための方法があるとカルヴァンは巧みに説くのである。それは真の信仰であり、その現れとしての善行であるという。そして善行の手段として提示されるのが職業労働、神から与えられた使命としての「天職(Beruf)」に徹することだとされたのである。


 ここでの善行は「救いを得るための」手段ではなく、あくまでも「選びを見分ける」手段のはずであった。しかし「これは実際上は、結局、神は自ら助けるものを助ける、ということを意味する。つまり、....カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを<作りだす>のであり...(2)とされている。この論理の展開は一見大きな矛盾であると言わざるを得ないが、しかし、これこそが「資本主義の精神」に至る一番重要な要素ではないだろうか。「予定説」が説くように救済がすでに決定しているのであれば、いくら善行を積んでも無駄ではないのかという「合理的」判断に、この解釈はひとまずの猶予を与えている。善行を積める、つまり職業労働に勤しめるならば「たぶん」神から選ばれた人間なのですよ、という猶予である。そして私はカルヴァン派を大いに意図的だと感じるのだが、この猶予は「たぶん」という不安定さを伴うことによって、よけいにプロテスタントを内面的孤立化へと追い込み、救済への不安を煽ったのであろう。


 ここで救済への不安とは、救済への中途半端な希望、あるいは果てしない欲望と言いかえることもできよう。つまりプロテスタントの信者たち自身による非合理ともいえる「救済への欲望」があったからこそ、信仰のカタチが、目標達成以外の他事への欲を抑える「世俗内禁欲」に転化していくのである。


 私はこの第1段階において、彼等のこうした「欲望」こそが重要なポイントだと考える。彼等が表した心情が「真の信仰」と異なることは明らかであるが、仮に信仰と呼んだとしても、それは見えざる強制力という名の支配ー被支配関係でしかないのである。その意味で「人間が官僚制的社会組織の歯車の一部と化し、『管理する僕(…)』あるいは『営利機械』(…)として『財産に仕える』というこの疎外された関係の倫理的起源は、まさしく禁欲的プロテスタンティズムにあるということ」(3)「宗教改革における文化革命と、それによる伝統主義的で帰属主義的な絆からの人間の解放こそが、ヴェーバーが『鉄の檻』と呼んだ近代の官僚制的秩序をもたらしたところの『倫理的基礎』なのだ」(4)とする部分の山之内の解釈は納得がいく。


しかし、それは果たして合理的と言えるのか。「ヴェーバーは、宗教改革期においてカルヴィニズムがもった改革思想の非合理性を通して、禁欲的な職業労働のエートスが生まれてきたことを語っているのですが、しかし、それは同時に、非人間的と言わざるを得ない内容をもっていたと指摘しています。つまり、古プロテスタンティズムのもつ非人間性ということが、最初からテーマとして設定されているのです」(5)と山之内は指摘する。しかし彼等の禁欲的な生活態度は、実は「人間的」と言わざるを得ない内容だったのではないのだろうか。たしかにヴェーバーもカルヴァンの教えが「悲愴な非人間性」を帯びている、と言っているし(6)、「『隣人』との関係における『人間性』はいわば死滅しさった」とも述べている(7)


しかし2度の世界大戦を経た現代に生きる私にとって、ヴェーバーがギリシャ世界に求めたとされる「人間性」を素直に認めるのは困難である。「人間性」の意味内容はむしろ「利己的なもの」に変容したと感じる。一種の悲壮感をもってだが、私にはプロテスタントの生活態度をこそ、この意味で人間的と思えてしまう。


しかし、この時ヴェーバーが捉えようとしていた近代は、中途半端に文明化されてしまった世界、つまり「未完のプロジェクト」(ハーバーマス)に終ってしまったと解釈することもできよう。今の我々が人間的に発達する道があるとすれば、いったいどちらの道なのだろうか。



救済の欲望から「金儲け」の欲望へ


 前述のような「人間的な欲望」を抱えたプロテスタントにおいて「世俗内禁欲」は、神から与えられた「天職(Beruf)」に徹する以外の欲を絶ち切る生活態度に転化した。「ピュウリタニズムの禁欲……の働きは、『感情』に対して『持続的な動機』を、特に禁欲自体によって『習得』された持続的動機を固守し主張する能力を人間にあたえること、--つまり、こうした形式的・心理的な意味における『人格』に人間を教育することだった」(8)とヴェーバーは述べている。かくして「人間的な」信者は、結果的に営利活動に専念することになるのだが、その目的は当初、禁欲的生活の実践であったため無駄な消費は一切なく、「救済への欲望」から、自らにより一層強い規律を求め(「不断の反省」「不断の自己審査」)、職業活動に専念するようになっていくのである。そしてこれが、合理的産業経営を基盤とした近代資本主義の社会システムを作り出すという「意図しない結果」を招いたと説明されている。社会システムが出来あがってしまうと、「世俗内禁欲」が外側から強制されるようになった。ここに至って信仰は必要なくなり、営業の規律性、節約と再投資、数量的計算可能性などを倫理的義務とする「資本主義の精神」に帰結したというのである。この筋道は妥当であろうか。


 少なくとも私はこの過程に「合理性」を見ることはできない。たしかに営業の規律性、節約と再投資、数量的計算可能性などの経営内容、つまり「資本主義のシステム」として一見合理的であるかもしれない。しかしさらに合理的に考えると「無軌道な本能的享楽」(すなわち消費)を全否定すれば経済が成立しないのは明らかである。儲けなければ経営を続けることが出来なくなってしまうからだ。この意味において、禁欲的プロテスタントの信者による「資本主義の精神」は「内側」に大きな「ねじれ」を含んでいたと考えざるを得ない。「世俗内禁欲」が外側から強制されるようになったとされるが、外側からの強制が重要なのではなく、彼等の精神における「内側」の「ねじれ」こそが「資本主義の精神」つまり「金儲けの欲望」への鍵なのではないだろうか。



「内側」の「ねじれ」の解消


 講義での配布プリントによると、この「ねじれ」は「一方で非現世的、禁欲的、信仰に熱心であるということと、他方で資本主義的営利生活に携わるということ、この両者は決して対立するものなどではなく、むしろ逆に、相互に内的な親和関係にある」(9)として説明されている。プロテスタントの「ねじれ」はその内側で決して対立するものではなかった。「職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵と考えたからである。」(10)しかし、この「ねじれ」はいつの間にか解消されてしまったのである。それは何故か。営利生活の目的が禁欲的生活の実践ではなくなったからである。もちろん「ねじれ」は彼等が真に合理的であろうとするならば、解消される必然にあった。しかし「ピューリタニズムの生活理念は富の「誘惑」のあまりに強大な試練に対してはまったく無力だった」(11)とするには運命論に拠りすぎてはいないか。結果的には彼等自身が、禁欲的生活ではなくて営利生活を選択した、ということにすぎないのだ。それは現代一般の視点から見れば人間的な選択ではあるのだが、言うまでもなく、逆コースも存在したはずなのである。


 また、この場合どちらを選んだかによって合理的の度合いが測られるわけではないだろう。「ねじれ」を解消してしまったこと自体が問題であり、これを「合理的」と言うならば、この意味においては非合理でありつづける道はなかったのかと思わざるを得ない。


 つまり、世俗内禁欲を捨て功利的現世主義に合理化(統一化)されたエセ・プロテスタントが資本主義社会の形成を押し進めたのである。「業績」と「断念」は今日では、切り離しえないものとなっている、とヴェーバーは述べている(12)。「断念」とは、ヴェーバーの認識する人間性、すなわち「ゆたかで美しい人間性の時代」からの断念であろう。美しいままでは業績に結びつかない、という資本主義の本質の一面を見抜いた言葉である。それは現在の我々にとって「個々人にとっては事実上、その中で生きなければならぬ変革しがたい外殻として与えられているもの」(13)となってしまった。しかし、この資本主義を作ったのは人間であり、これを管理し続け、ついに「鉄の檻」に育ててしまったのもまた人間個々人なのである。そして「この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人……の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定し続けるだろう」(14)という事態に突き進んでいるときに、現代の我々ができる最適の行動とは何だろうか。


ヴェーバーの言葉は多分に悲観的だが(そして彼の分析どおりに歴史は進んでいるのだが)、決して山之内が言うような「歴史の根源的な不確実性、運命性」として語られているわけではない。なぜならヴェーバーの認識する「合理化」は実に多様に存在するのである。彼にとって「合理化とは決して単線的、進化論的な発展の経路を指すのではな」(15)い。例えば彼は「目的に対する手段の関連で自他を利用する「目的合理的」」と「特定の信念・価値を自ら選択し、結果をかえりみずにこれにしたがって行為する「価値合理的」」を提示しているが、禁欲的プロテスタントが結果的に「目的合理的行為」を選んだことを受けて、その行為が肥大化することによって何が損なわれるかを緻密に分析し報告する論文が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」であるというだけなのだ。



「欲望」と「支配」からの卒業


 現代は出口の見えない閉塞感に陥っていると言われている。ヴェーバーが遭遇した近代の問題である「鉄の檻」という支配構造もその大きな要因だろう。ヴェーバーが「鉄の檻」について言及した箇所の後に、「今日では、禁欲の精神は……この鉄の檻から抜け出してしまった」(16)という言葉がある。


 ヴェーバーは、「鉄の檻」に最後に住む者を「末人」と呼び、「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」(17)と述べているが、「末人」とは、禁欲の精神の喪失などもはや気にすることすらなく、「鉄の檻」の中で満ち足りて生きている人間の姿を指すのであろう。そしてこの意味は翻って、「鉄の檻」の中は個々人のさまざまな「欲望」で充ちているということである。言いかえると個々人の「欲望」こそが「鉄の檻」という資本主義の支配構造を発展させてきたという意味でもある。そもそもの起こりは、禁欲的なプロテスタントによる「救済への欲望」であった。欲望を持つことで「鉄の檻」に巻きこまれ、欲望を持つことで目的合理的に支配されうるのである。


 しかし「鉄の檻」は「個々人にとっては事実上、その中で生きなければならぬ変革しがたい外殻として与えられているもの」(12)と指摘される。そこに巻きこまれなければ、もはや我々は生きてはゆけない。こうした矛盾と自己分裂を解消するには、「欲望」以外のもので「鉄の檻」を充たす方向を模索することだろう。つまり「鉄の檻」の解体ではなく、個々人の解体である。「欲望」に支配され構造に巻きこまれる個々人を解体し、自分本来の生き方を主体的に選択しうるかどうか、という事の実践をするのである。幸い「いやだけど仕方ない」ということをいつまでもやってる組織は、もうつぶれていかざるを得ない時代に突入している。そういった時代の到来において「鉄の檻」はやがてその作用を及ぼさなくなるだろう。そこで求められるのは自由を支える意志と自らの決断に基づく合理的行為である。自由な主体がフーコーの言う「権力と密接な親和関係を有する人間類型」であってはならないのは言うまでもない。


もちろん「この理念の実現には、存在としての自己の体系化が必要であり、それは至難の技である。体系化のためには個々の行動に基準を与え、内面を究極的な価値志向で貫かなければならない」(Brubaker:1984)(18)ということもまた厳しい真実であろう。「鉄の檻」という支配構造に絡めとられた現代において、真に自らの価値判断に基づく合理的な行動をとることは、理想的すぎるという意味において、まったく非人間的であると言わざるを得ないのである。


 この問題の直接の解決をヴェーバーに求めるのは困難である。ヴェーバーの問題提議がその後の社会理論に大きく影響を与えたことは確かであるが、彼の論文は「(処方箋ではなく)一個の「診断」を下すにすぎない」(Leowith:1932)(19)からだ。しかし、彼の警告した自らの可謬性を十分に自覚しながらも、自らにとっての価値合理的行動を実践し、しかるべき責任を果たしていくことは今後ますます重要ではないだろうか。




参考文献


(1)(2)(9)(10)(11)(13)配布プリントから

(3)山之内靖「ニーチェとヴェーバー」(未来社)

(4)(5)山之靖「マックス・ヴェーバー入門」(岩波新書)

(6)(7)(8)(12)(14)(16)(17)

マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

(18)「自我・主体・アイデンティティ」(岩波講座)

(15)(19)堀田泉編「「近代」と社会の理論」(有信堂高文社)

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