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2008年7月24日 (木)

「生命の倫理」か「生命の優越」か

そっか、医療技術の革新は、世界戦争を追い風にしてきたんだったよな~。

iPS細胞がガン化するって話よりも、さまざまな臓器が代替可能になるってことのほうが、実質的に、人間ステイタス的に怖いことかも。以前にも書いたけど、攻殻機動隊の世界に近づくんだね、素子ひゃん。

「生命の倫理」か「生命の優越」か-「輸血」治療から、脳死臓器移植・ES細胞まで(2003年)

「人間性」や「人間」を普遍の概念だとみなせば、わたしたちは過去の「人間」や「人間性」の風景への郷愁に左右されて停滞するのではないだろうか。(吉本隆明「停滞論」『マス・イメージ論』所収、1984年)


今日われわれが生命に関して抱いている「常識」は、それほど自明なものでも、不動のものでもない。医療技術の発達とは、この「常識」を書き換えようとすることであり、それはいつの時代も、生命に関する「常識」というものが内にはらんでいる不安定性を露呈させてきた。たとえば「エホバの証人」という宗教団体の信者は、「輸血」を神の意志に背く行為と考え、生命の存続が危ぶまれる時にあっても断固としてこれを拒否することを教義の一つとしている。具体的な輸血拒否事件もいくつか起きている。彼らを取り巻く外部、すなわち「現在のわれわれ」の大部分は、彼らを奇異で不可解な存在とみなし、この「輸血拒否」を、死をあいだに置いた「信仰」と「医療」の対立・拮抗問題として扱った。「信仰の自由」か「医療の優越」か、である。しかし、この二つの言葉は、現在、違う位相の言葉で言い換えうるだろう。つまり「生命の倫理」か「生命の優越」か、という生命科学の課題として立ち上がってくるのである。生命の「常識」が、医療技術の新たな展開によって、常になしくずし的に書き換えられる状況をどう捉えればいいのか。このレポートでは、「輸血」という医療行為が、いついかなる状況のもとで誕生したか、その歴史的経緯と、旧パラダイムの残滓としてその同時代に生まれた「エホバの証人」について簡単に振り返り、現在のわれわれに直面している、脳死臓器移植、クローン技術、遺伝子操作など、<人間>そのもののステイタスに関する「思考」を不可避にするような現象の考察につなげたい。


医療行為としての輸血

医療行為としての輸血は、17世紀のヨーロッパで開始されているが、その直接の契機は、ウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)による血液循環論(=心臓ポンプ説)であると言われる。ハーヴェイ理論は、それまで信奉されつづけてきたガレーノスの血液運動論を覆した。ガレーノス理論とは、あらゆる生命の源として神秘的なプネウマを考え、これが呼吸を通じて体内に入り、摂取された食物と一緒になったものが血液であるとするもので、この神秘的な力(プネウマ)を与えられた血液が、それ自体の力で体内を循環すると考えるものであった。このプネウマはラテン語でspiritusとして、中世ヨーロッパに継承され、聖書の「血は生命である」という教義(例えばレビ記の1714節)に結びつけられながら、soulと同義なものとして捉えることが一般化していた。これに対して、ハーヴェイは、心臓は「ポンプ」、血液はそれによって送り出される単なる「液体」と捉え直すことで、ガレーノス以来の生命に関するパラダイムを否定したのである。このハーヴェイによる「身体=機械」論によって、血液はその神秘性を払拭され、単なる身体機械の一部品となり、その自由自在な置き換え、すなわち輸血が学問的に正当化されたと言われている。その後、さまざまな輸血実験が開始されたが、羊など動物の血液を人体に輸血するといった例のように、医学的知見の不十分さがあり、試みは失敗に終わった。17世紀後半には、医師たち自身が「輸血」を危険かつ無意味なものとして禁止していくようになる。しかし、20世紀に入って、オーストリアの医師ランドスタイナーによる血液型(A・B・AB・O)の発見によって輸血可能な血液の組み合わせが明らかとなり、また、採血した血液の凝固を防止するクエン酸ソーダの開発に成功したため、「輸血」は正当な医療行為として可能になった。

「輸血」の普及と「エホバの証人」

医療行為として可能になった「輸血」が、急速に普及した大きな要因は第一次世界大戦である。高度の殺傷力を有する兵器が実用化された大戦下で負傷した多くの人間を救う手段が「輸血」だったのだ。第一次世界大戦が開始された1914年を、「エホバの証人」の始祖チャールズ・T・ラッセルは「世界の終末」であると感得し、現世否定と終末後の至福の獲得を説いた。「輸血」が新しい「常識」となっていくことに抗う事象は、世界戦争を契機に起こり、その一方で実質的な医療技術の革新は、世界戦争を追い風にして古い「常識」をいとも容易に駆逐し、新しい「常識」を定着させてきたのである。

「生命の倫理」か「生命の優越」か~脳死臓器移植

1980年代後半頃から、臓器移植の問題は、重大な倫理的課題として扱われてきた。加藤尚武は、「「私の臓器は私固有のものである」という、これまでの「常識」は、単に臓器移植の危険度、すなわち抗体免疫反応の抑止が不完全であるという技術的制約によって成立していたにすぎない」とし、「技術の制約の陰に隠れていた権利」を発見し、かつ法的に擁護していくことの必要性を説いた。現在、広く認知されている臓器提供意思表示カード(ドナーカード)は、一つの成果であろう。しかし、このように故人の権利が保護されているにもかかわらず、1997年に臓器移植法が施行されてから、その3年後の200078日において、日本における臓器提供はわずかに7例であった。臓器移植医療が日常医療として定着しているアメリカでは約6,000例、ヨーロッパ諸国においても、数千例の臓器提供が日常的に行われている現状とは比べようもない。この差はいったい何なのだろうか。それは「脳死」をめぐる国会論議のうち、法律家が「違法阻却論」と指摘する論議が大きな影を落としていると言われる。「違法阻却論」とは、脳死を人の死としない、あるいはそう断定しないで心臓などの臓器の摘出を認めようとする見解である。つまり脳死者は生きている可能性はあるけれども、心臓を摘出して循環を止めてしまって、だれが見ても死と思われる状態を招致しても構わないという議論であった。それに対して、臓器提供に必要だから脳死を人の死としようという議論はすべきでないという、まったく常識的な批判が法律家を中心になされ、日本最初の心臓移植である和田心臓移植への懐疑も加わり、日本における臓器移植医療への信頼は地に堕ちる結果となったのである。

ここで表われていたのは、「輸血」治療と同様に、「生命の倫理」=「ドナーの生(死)への倫理」と「生命の優越」=「患者の生の優越」の対立関係であったが、これが日本において普及しなかった要因は、脳死ドナーの生死判定の困難さ、つまり臨終における医学的知見の至らなさにあり、さらに加えて「遺族主義」と揶揄される感情論も影響していると推定される。


「生命の倫理」か「生命の優越」か~ES細胞(ヒト胚性幹細胞)

しかし、生身の人間から摘出するのではない臓器を移植治療に使えるとすればどうだろう。現在、日本で研究が急ピッチで進んでいるES細胞(ヒト胚性幹細胞)である。これは人間の受精卵のなかから取り出すことができ、培養すれば、神経細胞や骨、心筋などさまざまな細胞に分化して、いずれは拒絶反応のない細胞治療や移植医療に大変役立つと期待されている。平成14年4月、京都大学再生医科学研究所はヒトES細胞株樹立計画について、文部科学大臣による確認(承認)を得た。同年6月、同研究所はヒト凍結胚の提供候補者に対して、ES細胞に関する説明プロセスを開始し、翌平成15年1月、提供を受けたヒト凍結胚を解凍し培養したのち、ES細胞株の作成を試みる樹立研究を開始している。もちろん、これらの研究に対しても「受精卵は胎児ではないのか」ということが論議されている。これまでの一致した見解は、子宮への着床終了(受胎)をもって妊娠の開始とみなし、胎児として保護するというものである。しかし問題は、体外受精した受精卵すなわち「胚」の保護だ。つまり試験管で卵子と精子を受精させる場合の、受精完了時から母体への移植・着床時までの受精卵だが、これは受精後約3時間から6時間経過で、独自の遺伝子をもった胚になる。約20時間経過すると細胞分裂が始まり、人の生命の原型を認めることになる。これまでの見解を適用すると、子宮に着床する以前は母体との結びつきもなく、人へと発達する確率も低いため、「胎児」として保護する必要はない。しかし、人となりうる可能性をもった「いのち」を物と同じように扱うことには抵抗がある。例えば子宮に戻さず捨ててしまう場合、殺害ではなく器物損壊でいいのか、それを盗んで実験用に使ったときは誘拐ではなく窃盗罪になるのか、といったような「心配」が多く議論されている。

しかし今、起こっている科学技術の発展、とくに生命科学の分野の急速な流れのなかで、助かるものは誰かということを、冷静に考えてみる必要がある。ES細胞(ヒト胚性幹細胞)についても、それの倫理的使用に関する議論だけではなく、その科学・医療技術により生を与えられる人間がいるということ。彼らの生きる権利を奪うほどの倫理観が存在するのかという点、あるいは第三世界で暗躍する臓器売買産業への再考手段という観点、または生命科学分野での立ち遅れが日本の経済・社会に与える影響なども含めて考えるべき課題であろう。

参考:社会学の理論でとく現代のしくみ「第7章:死の位相-信仰は医療に優越するか」

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