« いいねぇ毎日 | トップページ | 闇の子供たち »

2008年8月 6日 (水)

『「聴く」ことの力』より

抜粋していきます

つまり、この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性を前提するわけにはいかなくなっているのである。(谷川雁「暖色の悲劇」)

ぼくが真実を口にすると、ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて、ぼくは廃人であるさうだ(吉本隆明「転位のための十篇」)

エッセイの行き方は方法的に非方法である。(アドルノ「文学ノート」)

平易さという約束や真理を作用連関として見る見方に従わないエッセイは、第一歩から事柄をそのあるがままの多層性において考えざるを得ないように仕向け、それによって通常の理性につきものの度しがたい幼稚さを矯正する。(アドルノ「文学ノート」)

話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を変えることである。ただ自分の気持ちをしゃべるだけではだめなのである。(竹内敏晴「ことばが劈かれるとき」)

相手がどうも私の合図に従いたくないらしいと私が気づいたとき、その結果私が自分の動作をもっと強調したとき、そこには二つのはっきりと区別された意識的行為があるわけではない。そうではなくて、私が相手の渋りを認めると、何の思惟も介在させないで、この状況からすぐさま私のじれったそうな動作がとび出して来るのである。(メルロ=ポンティ「知覚の現象学」)

彼等はつぎつぎと話相手をかえては、より深いコミュニケーションを求めて裏切られてゆく。そして、沈黙も饒舌も失ってスピーキング・マシーンのように「話しかける」ことと「生きること」とを混同しながら年老いてゆくのである(寺山修司「東京零年」)

ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型分裂病患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。<だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです>。(R・D・レイン「自己と他者」)

自他の<間>が自他を隔てる壁として意識されているわけで、それが空くとそこからつけ込まれるので、ことばの渦でその<間>を埋めてしまおうというわけだ。こうして憑かれたように口を動かしはじめる。(本文)

おそらく宗教における最大のなぐさめは、自分はひとりの大いなる他者の前に生きているという実感であろう。たいていの人びとは、人生のある時期に、彼らが幼年時代にそれを見いだしたかどうかは別にして、少なくともひとりの他人に世界のなかで自分が第一の場所を占めるという経験を求める。(R・D・レイン「自己と他者」)

人間は、他者の存在の欠落を経験するのではなくて、他者に対する他者としての自分自身の存在の欠落を経験する。彼にむかって何かをなんらかの仕方で働きかけてこない他者、彼を誘惑し、強奪し、何かを盗み、窒息させ、食い尽くし、なんらかの仕方で彼を破壊しようとしない他者に悩まされる。他者はそこにいるが、彼は他者に対してそこにいない。(R・D・レイン「自己と他者」)

被害妄想というのも、じぶんを(たとえネガティヴなかたちであれ)攻撃のターゲットとしている他者を仮構することで、そういう妄想的他者のその他者として自己を構築しようという無意識の要請というかあがきというか、それらを反映しているのだろう。(本文)

そして最後は、だんまりを決め込むという、コミュニケーションそのもののカット・オフという手(本文)

日常会話では、話し手と互いに相手の「次に言おうとすること」(意味志向)をその都度無意識のうちに先取りし合い、それによって自分が次に語ることもほとんど自動的に決まってくる。そしてこのような互いの「意味志向」の先取りが円滑に行われている限りにおいてのみ、会話の自然な流れも保証される。(長井真理「アンダースザインの意識について」)

« いいねぇ毎日 | トップページ | 闇の子供たち »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『「聴く」ことの力』より:

« いいねぇ毎日 | トップページ | 闇の子供たち »

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ

ツミボンの日々