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2009年12月 9日 (水)

「公共性」とは何か。

講義を聴いてのレポートだったわけだけど、講義の内容なんて、これっぽちも入ってない。冒頭に二~三行ほどでばっさり切り捨て。当然、評価も悪かったと思う。

そんな駄作をネットにさらすワケは、あずまん(東浩紀氏のことをワタシは勝手にこう呼ばせてもらっている)が、最近ルソーについて語っていて、それがとても興味深く共感できるものであり、さてワタシ自身はどんなことを考えていたかなぁと意識をほじくりかえしてみたかったので。このレポートは熟考(deliberate)でも何でもないけど。

あずまんのつぶやきはこちら→ @hazuma 7:56 AM Dec 7th

「公共性」とは何か。(2002年)

「公共性」とは何か。講義では「公共性」の概念を国家が担う価値的性格と想定し、それが確立していく過程とその変容について検討したが、現代社会において「公共性」を議論する意義は、国や政府、自治体のような政治権力に対抗する(同化しない)概念としての、あるいはこれを国家に担わせるまでの個々人の合意という概念としての「公共性」であろう。現在、保守的論壇において「シヴィック・ナショナリズム」が唱えられ、「公共性の回復」が叫ばれている。国家権力が弱体化しているという認識とともに、それは「国家権力の回復」と故意に混同され、「私的領域」の抑圧のために使われている。それは、「私」の利益ばかり追求することによって日本がダメになったのであり、それは「権利」ばかり主張することを教えた「戦後民主主義」や「戦後教育」のせいだ、だから皆で痛みに耐えねばならないといった構造改革用コピーに見られ、また小沢一郎が憲法改正試案において、「基本的人権」が「公共の福祉および公共の秩序」に従属すると述べていることなどに端的に見てとることができる。しかし、本当に国は弱体化し、権威主義は小さくなったのだろうか。

一般に「公共性」とは「私的なもの」と対立する概念だと考えられているが、実はそうではない。近代社会における「公共性」の登場とは、市民革命を経て、中世的身分秩序から解放された「個人」を中心とする新たな社会秩序の登場であった。「個人」一人一人が各々に納得して社会契約を結ぶことで「国家」が存立できるが、当初の契約に反して、私的所有権を含む基本的人権を侵害される事態には、徹底的に抵抗できる権利(抵抗権・革命権)を持つといった内容である。究極には私利私欲の塊として生きる「近代的個人」の集合体により成立するものとして近代以降の「公共性」は理解されなければならない。個々人の様々な私利私欲(ニーズ)に答えられない国家に対しては不満や不信感が噴出し、それは国家の「正統性の危機」(ハーバーマス)として認識されたのち、80年代以降、国家機能の再編成が起こった。個人の私利私欲を無視する代わりに、不満分子を押さえつけることのできる危機管理体制を備えた「小さくても強い国家」への再編成であった。国家=公共性の構図は崩れたと言えるが、国家の権威主義は決して小さくなっていない。しかし、個人の私利私欲を力で押さえつけても、また保守的言説で道徳心を振りかざしても、もはや無理なのだ。近代個人は、その存在意義からも、「公共性」を、私利私欲の果てに構築しなければならないのである。

私利私欲の果てに構築される「公共性」とはどんなものだろう。ここに現在の我々が当面する問題がある。人間が基準とすべきものが公共的な意思だというディドロに反論して、ルソーはこう述べている。「でも私の考えるしぶとい「独立人」なら、それではまだ甘いというだろう。公共的な規則に従うことが人間にとって正義だということはわかった。だが、なぜこの規則に従わなければならないのか。その理由が私にはまだわからない。何が正義かを、私に教えてくれることが問題なのではない。正しく振舞うことで私にどんな利益があるのかを、私に示してくれることが問題なのだ」(『社会契約論』ジュネーブ草稿)。これを受けてルソーは、私利私欲の徒が説得され、公共的な社会の堅固な支え手になること、そういった社会の構築が重要だと説いているが、このときの説得の有効な手段とは何だろう。それはルソー自身が苦し紛れに結論した天才的な指導者や市民宗教ではありえず、またアーレントが言うような個々の超人的な「決意」でも、ハーバーマスが提唱するNPOやボランティア・市民運動に続く「非国家的・非経済的な結合関係」でもない。答えはすでに出ている。「私にどんな利益があるのか」ということである。私利私欲の徒が説得されうるのは、やはり私利私欲しかないのである。しかし私利私欲とは物欲だけではない。物欲に満足すれば、成功欲、名誉欲、さらには人類愛など、より高度なものへと進化する可能性を秘めている。つまりは私利私欲も変わり、それは人間が変わりうることと同意なのである。個々の人間が変わりうることは、その集合体として成立するものとしての「公共性」も変わりうることであると言えるのではないだろうか。我々の課題は、現実的な不平等を生み出している私利私欲を、いかにそうでないものに変えていくかということではないだろうか。

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