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2014年7月23日 (水)

ロックの詩人 志村正彦展 後編~展示室102

展示室102では、「若者のすべて」の歌詞の自筆草稿の展示がメインでした。

今回の志村正彦展に参加された方の多くが驚きとともにつぶやいておられましたが、私も例に漏れず。。

実は主催者の方と直接お話する機会があったのですが、その時に、「この草稿に偶然出逢ったことが今回の展示会を開催するきっかけであり原動力だった」というエピソードをお伺いし、まさしく偶然は、そこから必然を生み出すことの出来る人の前に立ち現れるんだなぁと深く胸に沁み入り、あぁ本当にヨカッタ!という気持ちでいっぱいになりました。

しかも今回、草稿を展示するだけでなく、決定稿に至るまでの詩作の過程を推論した仮説が展示されていたことにも目を見張りました。

解釈に正解はないですし内容について吟味するには記憶も不確かですので控えますが、こういった展示の手法は、まさに志村正彦の詞を文芸として捉え直し理解しようとする試み、つまり文学館のそれであったのだろうと思います。心から感服いたしました。

しかし、私は、確実にある種のショックを受けていました。
それはすぐには言葉にならず、2~3日してようやくツイッターにつぶやいたのですが。。

志村って作曲マシーンとたまに言ってたけど、作詞マシーンとは言ったことないよね。。とふと思う。

だけど、例えばくぼんげとかきっしーがあげてくる曲を職人技だなぁという感想を持つとして、志村の場合はどんなにテクニカルによく出来ていても、そういう風には思えなくて。。もちろん、マシーンとは思えない。

作詞はなおさらで。。
だから今回、「若者のすべて」の草稿から完成まで9割方のフレーズが推敲され書き換えられていたという事実にえもいわれぬ感情が渦巻いた。

これまで詩人の作業というのを辿ったことはないけど、小説家の草稿はたまに見る。9割違ったら別作品やんね。

でも不思議と若者のすべての世界観があった。それも濃厚に。プロトタイプの想いがあった。

いったい何にショックを受けて、えもいわれぬ感情とは何なのか、正しく言語化できるかというといまだにまったく自信がありませんが、とにかくランダムに想いを吐き出してみたいと思います。



草稿から決定稿への変わりようは想像をはるかに超えていました。まず、そのことに驚愕したというのはあります。

実際に表現された言葉の背景に幾重にも積み重なる言葉の重さと深さ。。

しかし、「別作品やんね」とつぶやいたように、ここまで変えようと、いや変わろうと思ったキッカケは何だったのかということにも想いを馳せずにはおれません。

「若者のすべて」についてのインタビューで
一番言いたいことは最後の < すりむいたまま 僕はそっと歩き出して >っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに。(『音楽と人』2007年12月所収)
と語っているのもあり、ものすごく気になるところです。

また前提として、芸術全般における、いや特に詩作における推敲という行為について、私自身どこか懐疑的な思いがあったことも確かです。

ある方がツイッターで「あの曲ではストーリー性を重視するために自我を消していったのかな」とつぶやいていましたが、否応なく自身から滲み出る言葉を、冷徹に精査して削っていく作業の厳しさと危うさを思い、そのこと自体に心がざわついて居た堪れなくなったということもあります。。

芸術には完成品も正解もないはずですが、彼にはまるで「素晴らしい完成品」が見えていたかのようです。。プロの「作詞家」たるべくあろうとした。。のかな?とも思いました。

次のブログでは、この詩作の過程を、彫り出す作業・彫塑(ちょうそ)だと表現しておられます。

素晴らしい分析だと思いました。しかし何かひっかかるナ。。と、つぶやいたのはこれ。

草稿すごかった。そこからの推敲はまさしくプロフェッショナル。いやしかし、そこからの「CHRONICLE」なんだよな。

何故、次が「CHRONICLE」だったんだろう。

「CHRONICLE」は推敲されなかっただろうと言うつもりはありませんが、明らかにその質感は違います。制作過程も違うのではないか。。

私が志村正彦の作品に自分勝手に共感したり、たまに心を刳られるような激しい思慕を抱くのは、何か存在の根源的なものへの執着と焦燥感を掻き立てられるからなんです。

これは彼が作る詞だけではなく、メロディと声を伴ったものとして享受しているのであり、さらにはライブ映像やメディアで見られる言動とそのトーン、そして何よりも今現在において本人が不在であるという決定的な事実を含めて醸成されたマボロシであるかもしれません。


しかし、どうしようもなく続いている、このリアルな魂の揺さぶられ感を、どうにか理解したい。。


2年ほど前、ある写真展にお邪魔したときに、これは理解に近づくヒントになるかもしれないと思ったことがあります。そのときの感想ツイート。。

ふぅ。。なんかね。瞬間をとらえると、あまりにもとらえすぎると、そこから巻き戻されるんだなって思った。これはほめことばだよ。

巻き戻され解かれる感覚だ。フラッシュバックされる物語だ。動が静に。静が動に。流れは逆になって、ほらキミが現れる。

まったく感覚的なものでしかないのですが、一方の「若者のすべて」には、フラッシュバックされる物語ではなくて、此処から今から紡ぎはじめようとする物語があるように思います。
そしてそれを彼は一連の推敲の中で得ていったのだと今回わかりました。

彼は「物語が必要」で「センチメンタルになりたくて、この曲を作った」とあるインタビューで語っていますが、そのために様々な工夫をこらしていったのだと今回わかりました。

例えば非常に効果的な小道具の登場。。
もちろん、それまでの詩作の中にも小道具的ワードはありますが、先ほどの写真の話になぞらえると、それまでは「静物が動いている状態」か「動物が止まっている状態」だったように思います。


しかし、「若者のすべて」は、動物が当たり前に動こうとしている物語で、そのために小道具などのあらゆる工夫をしつらえた。

それは虚なのか実なのか。。と。。

そんなことを思ってしまいました。。


もちろん、出来上がった歌詞は何度も読み返したくなるほど、味わい深いものに仕上がってます。まさに天才なんだなぁ。。



あー、やっぱりまとまらない!支離滅裂過ぎて笑えますね。。

ここ最近ほぼ思考していない私ですので、練習編ということでお許しを。。

そんな私でも思考せずにはいられないほどの素晴らしい展示だったということです。


最後に、偶景webさん(今回の主催者の方)の志村正彦ライナーノーツ「若者のすべて」論に多大な影響を受けていることを告白しつつ。。(今さらですが)


。。いったん終了しようと思います。



次回はフォーラムの報告をします。。そして、少し更新が遅れると思いますが改めてチャレンジしたいと思います。お待ちください。

(続く)

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