カテゴリー「コトバ」の投稿

ドラマツルギー

必然性というのは、自立した概念なんだ。それはロジックやモラルや意味性とはべつの成り立ちをしたものだ。あくまで役割としての機能が集約されたものだ。役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。役割として必然なものは、そこに存在するべきだ。それがドラマツルギーだ。ロジックやモラルや意味性はそのもの自体にではなく、関連性の中に生ずる。(『海辺のカフカ』村上春樹)

全世界は劇場だ。すべての男女は演技者である。人々は出番と退場のときをもっている。一人の人間は、一生のうちに多くの役割を演じる。(『お気に召すまま』シェークスピア)

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『「聴く」ことの力』より

抜粋していきます

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コトバ5

社会的構築主義の主な要旨は、 人間と、そしてわれわれの意識に現前するあらゆる他の「物事」は、 社会的に、すなわち言説的に生み出されるという主張である。 (『社会的構築主義への招待』、p.137

客観性は土台ありえないのであって、というのもわれわれ各人は、 必然的に何らかのパースペクティヴから世界と出会わざるをえず、 われわれがその世界について問うことになる問いや、われわれの理論や仮説もまた、 必然的にわれわれのパースペクティヴに埋め込まれている仮定から生じてこざるをえないからである。 (ibid., pp.245-246

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コトバたち4

ここはすごく久々.リハビリにコピペだ.

いろいろな昔のものを引っ張り出して読んでいると,いつまででも行ったり来たり.

どうしたものか.

宮台真司のコトバ.【Publicity】Vol.494(2003/01/14)より.

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コトバたち3

久々に,カート・ヴォネガットを読み直しました.

ピース.

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コトバたち2

民衆などというものは、いつでも支配者の思い通りになる。攻撃されるぞと恐怖をあおり、平和主義者の奴らには愛国心がなく、国を危険に晒していると非難しておけばいい。このやり方は、どこの国でもうまくいく。-ヘルマン・ゲーリング-

私たちは家庭の父が家族の幸福に向ける暖かい気配りや真摯な献身、妻子の生活を案じようとする生真面目な決意を賞賛したり、優しくからかったりすることに慣れてしまっていた。その結果、何よりもまず家族の安寧に気を配る献身的な家庭の主が、時代の混沌とした経済状況に巻き込まれる中で、知らず知らずに冒険家に変身していったことにほとんど気がつかなかった。(中略)この種の人間は、年金、生命保険、妻子の安全のためなら、その信条、名誉、人間の尊厳をたやすく犠牲にするということが明白になった。いったんそのように堕ちてしまえば、出費が嵩んで家族のかつかつの生活が脅かされたら、文字どおりどんなことでもする用意ができていることを発見するには、ヒムラーの悪魔的な天分を持ちさえすればよかった。-『組織的な罪と普遍的な責任』(1945)ハンナ・アーレント-

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コトバたち1

言っていることではなく,やっていることが,その人の思想である.思想は実践(行動)を伴なって,はじめて意味をなす.-グラムシ-

わたくしが痛みを感じているのかどうかを疑うことには,何の意味もないのだ-すなわち,もし誰かが「自分の感じているのが痛みであるか,それとも何か別のものであるのか,私は知らない」と言うとすれば,われわれはおそらく,その人が「痛み」という自国語の単語の意味していることを知らないのだと考え,それを彼に説明するだろうということ.でもどうやって?おそらく身振りによって.あるいは,彼に釘を刺し「わかったかい,これが痛みというものだ」と言ってやることによって-不明(おそらく『哲学探求1976』)-

外面的なふるまい,すなわち僕たちの反応や発言だけが,僕たちの依拠しなければならないものだ-不明-

人と思想を分けるなんてケースが起こりうるか.すなわち,間違った人が正しい思想.正しい人が間違った思想-不明-

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