カテゴリー「思索」の投稿

鍵の話

本質は(これまでの経験から)判っていても、それが正解とは思われないように、思考が日々修正されてしまうような状況がある。

本質に到達するためには「鍵」が必要であり、そこをブレイクスルーすることは、経験知でわかる本質を見出すよりも、おそらく難しい。

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共感/対話の場

※何だったか忘れたけどメモの一部です。

私は前者の二つについては共感を得るためには感情を調和させなければならず、それは「当事者の感情に入り込もうとする観察者の努力」と同様に、「自己の感情を観察者がついていけるものにまで引き下げようとする当事者の努力」(Adam Smith)がなければならないという信念のもとに両断せざるを得ない。

つまり差別者に向かって被差別者が自らの差別の悲話を何万回唱えても、差別者自身の身にも起こり得るという現実感を持たせない限りあまり効果は期待できないのである。(現実感を持たせる方法には注意しなければならない。たとえばこういった差別問題の講義では、必ずと言っていいほど女性差別を引き合いに出すが、たとえ女性であっても私にとっては現実感がなく全く効果がない)。これは共感を得たい当事者が国家であってもまったく条件は同じであると考える。

しかし第三のいかに討論の場を立ち上げ、そこでの対話に人々を巻きこむかという点は、巨大な組織力や財力を誇る国家やマスメディアと比較してその実現の可能性に大きな差があると言わねばならない。

現状の市民は国家やメディアが流す情報を受け取るだけの自律性を失った「大衆」となり果てており、個人が素早く効果的に意見表明できる公共的な討論の場がなく、それを当然のことと考えている。

ハーバーマスによると、それは「公的領域の衰退」であり、「親しい者どうしが文学や政治の話を避けて、一緒に映画やテレビを気楽に楽しむというような、インフォーマルなグループ活動が一般化してしまった」と指摘される。

そういった「私的な関係の親密さ」は「他人同士が距離を保ちつつ関係し合い、ともに行動できるような社交性」を失わせ、人々はエスニシティや階級別に区分された、内向きな社会で生きることを求めだすのである。

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癒しについて

リンク: 壊れる前に…: ホロコーストとパレスチナ.

上記リンクの内容を読んで、以前のシブい感覚が戻ってきた。

かなり支離滅裂だけど、書き留めておきます。


自己同一性という名の癒しという問題が一時期流行った。現在でも考えられているのかもしれないけど、いわゆる「プチ・ナショナリズム症候群」。

ドイツ近代思想からナチズムという歴史の流れも影響して、戦後日本では(少なくとも左系思想近辺では)、ナショナリズムを危険視するスタンスが王道。まぁ当然かな。

ただし、問題設定を、戦争~戦後責任にする場合、私は何者であるべきか、という問いは重要。そしてその答えは、「全面的に日本人であるべきだ」だと思う。

しかし、グローバリズム、特に多国籍企業の発展を背景にした経済~軍事グローバル化という現在・未来を問題設定とする場合は、「日本人」というものに全面的に人格統合しようとすることは問題を多く含むと思われている。たとえば911以降の米国が悲惨なケース。


したがって、そういった文脈では「日本人」という集団的同一化を否定する思想、つまり「地球人」「国際人」「人類」「人間」が多用されてきたように思われる。


プチ・ナショナリズムに警鐘を鳴らす側の主張は、プチ・ナショナリズムが<癒し>になっているという、ざっくりと主張なんだけど、逆にワタシは、「地球人」「国際人」への融合こそ<癒し>だと思う。

一人一人が皆んな違って、いろんな考えがあるという「多文化主義」も<癒し>。軽いもん。

戦後処理を考えるときには日本人として、ネオリベや環境問題を考えるときには地球人として、そういった変わり身は可能だろうか。

もちろんワタシに付けられる「タグ」は、決してひとつじゃないけど。


しかし、日本人であることを「たまたま」にするような流れは感心しないな。デフォルトで付いている「タグ」は、圧倒的に疲れるものだが、それこそが思索の源。

ちょっとした予感がするのだけど、経済~軍事グローバル化や環境問題といった話においても、<日本人>で統合したら、今のワタシはたぶん大変疲れるのではないか。

ほんでもって、主張したいのは、「疲れるぐらいじゃないとダメでしょ」ってことだ。


戦後民主主義による典型的な人格形成。問題を注意深く避ける人格は、それを意識的に認識するときは、強くなる。

もちろん強いから良いと主張するつもりはない。ただ壊れないだけだ。

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練習

基本姿勢に、「思考のプロセスを書き留めます」ってあるんだけど、ニュースクリップばかりで今年度はほぼ思考していないことに気づいたcoldsweats01

そんなわけで、来年度は思考体質に戻るよう意識すると思う。

練習。

「ダブル・スタンダードによって不利益を受けている集団がすぐれているのは、ジンメルのいうような「鳥の視座」すなわち差別の認識可能性だけであることを確認しておかなければならない。かつてマルクスが労働者の全体性として強調したあのロジック――しいたげられている者たちだけが「正義」であるという救済の論理――は、このさい廃棄されるべきである。認識論的優位性と構造的優位性とは混同されてはならない。」

Socius:ダブル・スタンダード理論のために

つまり、認識論的優位性をもつのは少数者だけど、構造的優位性をもつのは多数者だってことだ。ここで「正義」というコトバが適切なのか疑念だが、私が引っかかるのは、被抑圧者「だからこそ」社会を変えうる可能性を持つと言いたげなマルクスの主張。

この辺、当事者性を云々する議論と関わる。あれって、研究者って自らの首を絞めてんじゃないのかって。

それとも、そこ(現場)からは超越した別世界での物言いだから、関係(影響)ないのかね。

こういう解釈はジンメルとすれば不本意かもしれないが、「もちろんジンメルが差別について考察せざるをえなかったのは、かれがまさに社会学者であったからだけでなく、ユダヤ人としての個人的な被差別経験に負うところが多い。」

と野村氏も書いているように...ていうか。

少数者だけが正義なんて思わないけれど、立ち位置上、言えることがあるんではないかいうのは謙虚に思う。ユダヤ系思想家は、「ユダヤ人の不遇」という担保がないと、そこまで突き詰めたことは言えないんじゃないのって(ありゃ、この言い方は謙虚じゃないな)。

アーレントだから、サイードだから言えるっていう思想は必ずあると思うので、それを他者の視点として参照することはできるにしても、それを「超越」するものとして「信仰」したいと思っても無理だ。

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反実在論

知りえないもの.直接に観察不可能なもの(電磁場,クォーク).未知なもの.これらについては,正しいことを言えるかどうか,わからないという立場.

(電磁場,クォークについて詳しくは知らないのだが,放射能は計測器により正しくそのレベルを観測できる.ただ,その健康への影響については未知.これが少なくともワタシの立場)

たとえば静電気という現象.これを「電子」で説明しても,「天使」で説明しても,観察可能な対象を全部説明することができれば,それで問題ない(「天使」というと「とんでも」っぽいが,「クォーク」だって同等.名付けの問題)

なぜなら科学の目的は,真理の探究・発見ではなく,「経験的に十全な」理論を構成することだから.

つまり,正しいかは分からないが,経験的には十分である,ということ.

観察不可能な対象を含む理論をうまく構成して,できるだけ多くの観察できる真理を説明すればいいという考え.とりあえず「現象」に注目して技術に応用し,「何故」かを問わない.うーん,ここまでいくと,どうなんだろう...

「いやぁ...何故かわかりませんが,出来てるんですよ」...みたいな...(ところで,飛行機の原理,何故飛ぶのかということは,実際のところわかってない,というのは有名らしい)

リスク論を当てはめると,どうだろう.

リスク論は反実在論的立場なのか,そうでないのか.それによるな.

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社会構成的ということ

世界は科学によって正確に捉えられるという直感(科学的実在論)を,もちろん擁護したいが,しずらくなっている今...

社会構成的ということについて,考えてみる.

社会構成主義は,自然で当たり前で実在的だと思い込んでいたことが,実は人と人とのやりとりや権力関係の中で社会的に構成されたものにすぎないということを暴露した.

おおむね社会・人文科学には当てはまるが,これを自然科学に当てはめようとすると,俄然,反発が起きる.

反発の中で,必ず持ち出されるのが,ニュートンの万有引力の法則などの基本的法則をどう考えるかだ.

(見た目)物はずっと落ちてる.有史以来,いや地球のはじまりからそうだったんだろう.そんなことは疑っていない(あるいはどうでもいい).問題はそんなところにはない.

まず,科学的実在論とは何かについて,まとめ:

1)世界はあらかじめ構造や秩序をもつ.それをうまく捉えたかどうかが問題.つまり世界のありさま(真実)を科学は知ることができるという前提(広義の実在論)

2)あらかじめの構造や秩序があるかどうかは不問.真実は科学によって解明できるかどうかはわからない,あるいはどうでもいい.現象を説明できる理論を構築(反実在論)

社会構成主義は観念論だとの批判があるが,1)の実在論のほうが,ワタシには観念的だと感じる.「あらかじめ~もつ」などというのは,観念以外の何ものでもないのでは?

あらかじめの構造や秩序を,どううまく捉えたか?というが,それを誰が判断するのか.

原因と結果について.ヒュームの懐疑.ふたつの出来事がたまたま続いて起きただけだと考えることは,いつまででも出来る.これは真である.ビリヤード・ボールの例(『秩序を変える』ハリー・コリンズ).こんな単純な例を出すから余計に混乱するのだが,原因と結果については,特に人体や環境など複雑な事例に投げ込むとき,ヒュームの懐疑はかなりまともだということがわかる.

しかし,この懐疑を,むしろ利用するのが,実は権力システムである.

つまり「結果(症状,事例)はあるが,これが原因だとは科学的に解明できていない」といった弁明を補完する理論となる.

これが多くの健康被害,環境被害の悲劇を長引かせてきた.

(ある問題において)何も解明もしていない科学は,(その限りにおいて)万能な存在ではないはず.これが,いや少なくともワタシの主張する第一点.

そうであるならば,「科学的に解明できていない」...ふーん,それで?と言いたい.

原因だと解明できていないのだろうが,原因でないとも言い切れないのだろう?

万能な存在ではないはずの科学に,何故,人々は信を置くのか.これは,これからの興味.

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押し付けられた

「押し付けられたから」は理由にならない.

なぜならそもそも人間は,すべてを押し付けられた存在である.生は選び取ったわけではない.

押し付けは,実存を考える際の前提である.押し付けで生が始まり,人はその歴史を積み重ねる.

途中で違和感をもつもの,もたぬもの.

外界へ適応せぬもの,しすぎるもの.

圧力へ抵抗するもの,せぬもの.

憲法を改正して自衛隊の存在を明文化すれば,その都度の政府解釈がなくなると考える人がいる.何が出来て何が出来ないかということの規定が出来ると考える人がいる.あいまいがゆえに不安定で危険な状態を脱することが出来ると考える人がいる.

そんなの,まやかし.

簡略化しすぎを承知で書くが,改正とは「隊」を「軍」にすることだ.

不安定で危険な状態を脱することが出来るなんて,まやかし.

とにかく,太田総理には頑張ってもらいたい.

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わかったつもり

「わかったつもり」を脱け出すこと.「考察」への移行をすること.

「答えがうまく出ない問い」をどう取り扱うか.

...ための技法 ずらす技法.

「答え」は提供されるものではない.

「知ることの意義を」なんて,バカみたいな主張はしない.

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BSE問題の仮説

BSE問題において,日本の科学者集団が出した有力な仮説が,なぜ社会構成的なのか?について考える.

結論の出ていない審議を無視して政治的判断で輸入を再開.そこで根拠とされた仮説は,この振る舞い(審議の無視)から導かれるものであるため,科学的根拠に基づくものではなく,社会構成的だと判断されるのでは?

But,こういう言い方だと仮説そのものが社会構成的だということにはならない.仮説の成り立ち方が社会構成的だと言っているにすぎない.

仮説そのものが社会構成的だと言うためには,「リスク1%」に向き合うべき.

そもそも社会構成主義とは,世界は認識の付属物としてあるという考え方.認識以上の世界はありえないと考える立場.

これをBSE問題に戻すと,ここでの認識は「リスク1%」なんです.で,「リスク1%」以上の世界はないと考える.

しかし,第一世代,つまりプリオン肉を食べて,プリオン病を発病する当人は,何万人のうち数人だとしても,もしかして第二世代において,さらに深刻な何らかの支障が,ほぼ100%で起こる可能性について考えない.そういった世界はないというのが,社会構成主義ではないのか?

反実在論は,そういった世界があるかもしれないけど,わからないという立場.

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伝える

子どもの写真,2枚.

泣いている顔 笑っている顔

どちらにシンパシーを感じる? あるいは,どちらが現実を伝えられる?

何が「現実か」はさておき...(おそらく2枚とも現実)

笑っている顔にシンパシーを感じるでしょう...との意見.

しかし,笑っている顔を受け取った人間の心理を考える→人って単純.悲惨な「現実」(があるとして)も考えず,「なんだ,けっこうシアワセそうじゃん」と安心する.

それでいいのかな.中島みゆきさんの歌を思い出そう.

「そうさ,死ぬまで春の服を着るよ」ってなカンジ...

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サイエンスの今日的状況

真実は目標

20世紀前半までの大きな物語(大理論)

20世紀後半から現在までのいくつもの小さな物語(多様性の認識)

科学技術も同様?

真実を取り崩す状況,つまり法則をみつけるよりも,ミュータントをみつけることが,現在の使命? あるいはそれに精進

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からくりの原因は

からくり(世界がどうなっているのか)の原因を知りたいと思い,

科学に何ができるかを見極めるために大学へ.

あるいは,科学は社会・世界・個人にいかなる影響を与えるのか,どのように作用し変化させうるのか,というのが大雑把な問題意識.

それまでは,コトバがその役割を担えると考えてきた.それは私自身が,さまざまなコトバに触発を受けつつ変わってきた経緯があるから.今もそう思っている.ただ,それだけではダメだなとも思っている.土台はコトバとしても,そのうえに科学を積み重ねることが必要.あるいはその逆も真.

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生物の多様性

なぜ必要か.

1万年前から農耕牧畜で,人間圏は生物圏と切り離しても生活できる.

<農業・漁業>

農業:人間圏,育てる,地球システムへの影響大

漁業・猟業:生物圏,略奪,捕獲しすぎなどの影響あるが小

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問題群の捉え方

公的問題と,社会問題は違う.

→社会問題(一部の人々にとって切実な問題)を,公的問題にするには,どうすればいいか

ビジネスパーソン

CSR

公的問題にはコミットしそうだが...

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アイデア未満1

協同すること

ドゥールズ/ガタリ

ネグリ/ハート

マルクス/エンゲルス

ティーチ イン

スピーク イン/スピーク アウト

シミュレーション会議

フツバ・プロジェクト

*フツバとは=

セルフ・アドボカシーと支援:例えば,イラクでの人質→その運命

山本譲司:レッサー・パンダ事件への言及

ファシリテーター?→当事者を支援するヒトを支援するとは?

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権利かケアか

権利の問題とケアの問題は,根本的な考え方の土台が違う.あるいは「ふるまい」が変わってくる.

→権利を獲得した後のケアの問題

→権利を獲得できていない人のケアの問題

権利を獲得したからといって,問題が解決するワケではなく,引き続き,何らかのケアが重要なのはわかるし同意するが,未権利の人の場合は,「単なる」ケアの問題ではないってことは,十分に理解しなければならない.

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